LIFE STYLE | 2022/07/29

人口1万5000人のリゾート地で5000冊の小説を売る。ベストセラー作家が仕掛ける書籍×観光マーケティング【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(31)

長年毎年初夏に新刊を出版し、ヒットを続けるベストセラー作家のエリン・ヒルダーブランド

渡辺由佳里 Yukari W...

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長年毎年初夏に新刊を出版し、ヒットを続けるベストセラー作家のエリン・ヒルダーブランド

渡辺由佳里 Yukari Watanabe Scott

エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・ストラテジー会社共同経営者

兵庫県生まれ。多くの職を体験し、東京で外資系医療用装具会社勤務後、香港を経て1995年よりアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』で小説新潮長篇新人賞受賞。翌年『神たちの誤算』(共に新潮社刊)を発表。『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)など著書多数。翻訳書には糸井重里氏監修の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経ビジネス人文庫)、レベッカ・ソルニット著『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)など。最新刊は『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)。
連載:Cakes(ケイクス)ニューズウィーク日本版
洋書を紹介するブログ『洋書ファンクラブ』主催者。

「Kindle本を実質無料で読む裏技」に作家たちが憤慨

アメリカでTikTokの読書インフルエンサーが 「#BookTok」タグを活用しベストセラー本を生み出している現象について、以前FINDERSのこの連載で書いた。だが、同時に大きな問題も発生している。Amazonにはデジタル書籍(Kindle本やAudibleのオーディオブック)を購入から一定期間返品できるシステムがあるが、読了した本を返品する「裏技」をTikTokで広めるインフルエンサーと、その裏技を利用して多くの本を無料で読むインフルエンサーが出てきたのだ。

多くの読者は知らないが、カスタマーがAmazonからデジタル書籍を購入すると送信のコストがかかる。そのコストは、ある自費出版の作家(インディ作家)によるとKindle書籍1冊につき7セントから15セントだが、そのコストを負担するのはAmazonではなく出版社側(インディの場合は作家自身)なのだ。返品数が1カ月で3倍近く増加していることに気づいた作家が原因を探ったところTikTokのインフルエンサーが広めた情報のせいだとわかった。読者は増えているのになぜか売上が減るだけでなくコストが増えている、という体験をしている作家は多いようで、Amazonにポリシーの変更を求めるChange.orgでの署名運動を始めた作家もいる。

紙媒体の書籍をTikTokのビデオで使ったり、全部読んだ後に返品する者も少なからずいるらしい。インディ作家らがTikTokで「1冊の返品によって5冊分の利益が台無しになる」と返品がどれだけ作家の収入を圧迫するかを説明しても、「そんなの私たち読者の問題じゃない」と平気で反論するユーザーもいる。

SNSのバズに頼らないベストセラー作家、エリン・ヒルダーブランド

こういったTikTokのインフルエンサーに頼らずに毎年全米No.1のベストセラーを出し続けている女性作家がいる。マサチューセッツ州のナンタケット島に住むエリン・ヒルダーブランド(Elin Hilderbrand)だ。

2022年6月14日に発売された『The Hotel Nantucket』は、ブックスキャンによると発売の週にハードカバー7万部を売り、ハードカバーのフィクション部門で全米No.1ベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーでもトップになり、7月11日現在でもNo.1を維持している。なお、同書のレビューを筆者が運営する「洋書ファンクラブ」にて掲載しているので、こちらもぜひご覧いただきたい。

「本が売れない」と言われる時代に、これだけ売れる本はどんな作品か気になるだろう。大富豪が最高級ホテルにする野望を抱いて作り直した、リゾート地のホテルでのミステリとロマンスで、幽霊を含めた風変わりな人間の関わりがユーモラスに描かれている。女性読者を対象にした大衆小説の「女性小説(chick-lit)」と呼ばれるジャンルに属する。

最近の作品にはミステリが含まれているが、2000年にデビューした頃のヒルダーブランドの作品はロマンスが中心だった。ゆえに、その頃には私も「ヒルダーブランドの本なんて……」と見下していたようなところがある。けれど彼女が文芸作家の登竜門として全米で最も有名なアイオワ大学の「アイオワ作家ワークショップ」(大学院レベルの文章創作のプログラムで、卒業者は修士号を取得する)の卒業者だと最近になってから知り、驚いたのは事実である。なぜならアイオワ作家ワークショップは、シリアスな文芸作家や詩人を生み出すことで知られているからだ。当時、彼女は自分の作品を「そんなものは出版してもらえない」と酷評され、惨めな思いをしたようだ。ところが作家のリクルート目的でワークショップを訪問した文芸エージェントに認められ、ワークショップに参加する前から書き始めていたナンタケット島を舞台にした処女作『The Beach Club』を2000年に刊行することができた。

ヒルダーブランドは2000年から2022年6月までに32作の小説を出した多作の作家だ。ことに、新型コロナのパンデミックが始まった2020年には4作、2021年には2作も刊行している。それだけでなく、近年の作品のすべてが発売と同時に全米でNo.1のベストセラーになっている。アイオワ作家ワークショップの卒業生の中でも、これほどまでの達成をした作家はほとんどいないだろう。

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毎年新刊を出版し、毎週のサイン会に行列ができる「夏の女王」

ナンタケット島の閑静な町並み

なぜヒルダーブランドの本はこれほど売れるのだろう?

私がそんな疑問を抱き始めたのは、ナンタケット島という接点があったからだ。私は結婚してすぐの1991年に、夫と一緒にこの島を初めて訪問し、小さなコテージを買った。ヒルダーブランドがナンタケット島に移住したのは1993年で、ヒルダーブランドがまだ作家として有名ではなかった頃に何度か早朝のジョギングですれ違ったことがある。私たちは当時東京在住だったということもあり、コテージのローンを払うためにも夏の間は貸別荘にしていた。ナンタケット島を舞台にしたヒルダーブランドの本は、わりと初期からコテージを借りた人のために本棚に揃えていた。他にもナンタケット島を舞台にした小説を書く作家はいたが、その中でヒルダーブランドだけが飛び抜けて有名になっていった。

ヒルダーブランドの本が売れるのはもちろん面白いからだが、活動を追っていくと彼女自身がマーケティングの努力を欠かしていないがわかる。

現在のヒルダーブランドには「The Queen of Summer(夏の女王)」というニックネームがある。暑い夏にビーチやプールサイドで軽く読む類の本をアメリカでは「beach read(ビーチリード)」と呼ぶのだが、そのジャンルでの代表的な作家とみなされているからだ。「夏の女王」の特別なブランドは、彼女が住んでいるナンタケット島だ。

日本では『白鯨』(ハーマン・メルヴィル著)の舞台として知られるナンタケット島は、海岸の観光地ケープコッドから約50km 沖にあるアメリカ最東端の小さな島だ。数多くの富豪や有名人が数十億円もする別荘を持つ避暑地として有名であり、冬の人口は1万5000人ほどだが、夏には別荘を訪問する人と観光客で一時的に8万人ほどに膨らむ。富豪の別荘を訪問する有名人をあちこちで見かける場所でもある。宿泊費が1泊10万円以上のホテルは珍しくなく、それでも夏の間は予約がほとんど取れないほど「高級リゾート地」として人気がある。

ヒルダーブランドは子供時代、毎年夏にはケープコッドのビーチで過ごしていたという。だが、父親が飛行機事故で亡くなった次の年からは、夏の間は工場でアルバイトをしなければならなくなった。そのときに「将来は何をしてでも、夏をビーチで過ごす」と決意したという。そんなヒルダーブランドは、ナンタケット島を初めて訪問したとき、ここに住むと決めて仕事をみつけた。その後、ナンタケット島の旧家の息子と知り合って結婚し、子供も産んだが、本を書きたいという気持ちはずっと抱いていた。

ナンタケットは以前から「オールドマネー」の避暑地だったが、最近では一般人が一度は訪問してみたい「憧れの高級リゾート地」になってきている。ヒルダーブランドの知名度は、ナンタケット島の人気と一緒に上昇していったところがある。

少なくとも毎年1冊は初夏に新刊を刊行するヒルダーブランドは、ナンタケット島のインディペンデント書店「Mitchell’s Book Corner(略称「ミチェルズ」)」で本の販売とサイン会を行う。書店を取り囲むような長い行列が出来ていると「ああ、今年もこの季節がやってきた 」と思う。今年もヒルダーブランドは夏の間は毎週水曜日にMitchel’s Book Cornerで本の販売とサイン会をするというので、一度私も行ってみた。毎週やっているから20分前に行けば楽勝だろうと思っていたらすでに大きな行列ができていた。

人口が少ないナンタケット島で存続が危ぶまれていた由緒ある書店を、新しいオーナーのウエンディ・ハドソンとマーケティング・ディレクターのティム・アーレンバーグが復活させた

サイン会が始まる前から長い行列ができていた

待っている間に並んでいる人たちにヒルダーブランドの魅力を質問してみたところ、「ナンタケット島が舞台」というのが重要な要素だとわかった。

高校生のときから毎年夏にナンタケット島を訪問してきたというデボラ。小学校教師の職を引退してハワイに家を購入した後でもこうしてナンタケット島を訪れている。ヒルダーブランドの本はサインしてもらう新刊以外はすべて読んだという大ファン

他にもナンタケット島を舞台にした小説を書く作家はいるが、その中で最も「自分もナンタケット島に住んでいるような、インサイダーの気分にさせてくれる」のがヒルダーブランドらしい。

ご主人のお姉さんがヒルダーブランドの大ファンで、その影響で『The Blue Bistro』を読んで自分もファンになったという20代後半のオリビア。ナンタケット島が舞台だというのが魅力だと語る。ミレニアル世代にもファンが広まっていることを示している

ハードカバー版には、Kindle版やオーディオブックにはない「Blue Book」というおまけがある。本の最後の方に、ヒルダーブランドによるナンタケット島のお薦めホテルやレストランの情報がガイドブックのように記載されているのだ。それらの場所が彼女のどの本に登場するのかも教えてくれる。ヒルダーブランドは実存のホテルやレストランをモデルにした架空の場所を小説の舞台に使うことが多く、例えば新刊の『The Hotel Nantucket』は実存のホテルNantucket Hotel、初期の人気作品『The Blue Bistro』(2005年刊)は実存のレストランGalley Beachをモデルにしている。ヒルダーブランドのファンは、これらの場所で登場人物になった気分を味わえるというわけだ。

このように、ファンに「インサイダー」の心理を抱いてもらい、長続きするファンダムを作ったのがヒルダーブランドの成功の秘訣である。

Hotel Nantucket のモデルNantucket Hotel。夏のシーズンには1泊10万円から20万円以上にもなる

ヒルダーブランドの初期のベストセラー『The Blue Bistro』のモデルになったGalley Beachレストラン。予約を取るのが非常に難しいことで知られる

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人口1万5000人の島で5000冊の本を売り切るマーケティング努力

ヒルダーブランドは、インサイダーとしての島の「味わい方」もファンサービスで教えている。例えば、Nantucket Hotelを使った4泊5日のファンの集いだ。参加したファンは毎日島のツアー、ディナー、ヨガ、ビーチ・ウォーク、カクテルパーティなどをヒルダーブランドと一緒に楽しむことができる。また島に来ることができない読者のために、全米を旅してファンの集いも催している。

ファンの集いに参加できる人数は限られている。けれども、これらの情熱的なファンが口コミでファンを増やしている。サイン会に並んでいる人たちに「何がきっかけで読み始めたのか?」と尋ねたところ、「姉妹、親戚の女性、女友達が大ファンで薦められた」という答えが多かった。妻や母親にプレゼントするために並んでいる男性もいた。

ナンタケット島の老舗書店であるミチェルズ書店は『Hotel Nantucket』の刊行前に5000部予約注文したという。輸送パレットが必要なレベルの数である。子どもを含めて人口1万5000人しかない島のインディペンデント書店がやることとしては無謀な気がする。しかし、書店員に尋ねたところ、夏の間毎週サイン会を行っているにもかかわらず毎回250冊は必ず売れるとのことで、予約注文分は夏のうちに売り切る自信たっぷりのようだ。ナンタケット島での観光中にヒルダーブランドの本を買う人がそれだけ多いということだろう。また、彼女がこの小さな書店を支える大きな力になっているのも事実だ。

ヒルダーブランドのことを「たかがロマンス作家」と見下している人はいるようだ。けれども、毎年必ず1冊は書き上げてプロモーションまでするというのは、凡庸な才能や簡単な努力でやり遂げられることではない。

むろん、彼女ひとりで達成したことではない。大量の予約注文を提案し、島のファッションデザイナーとヒルダーブランドの本とを融合させたファン参加型のファッションショーを企画し、島のブックフェスティバルの運営メンバーも務めるミッチェルズ書店のマーケティング・ディレクターであるティム・アーレンバーグの貢献は大きい。彼はインスタグラムで約1万8000人のフォロワーを持つ読書インフルエンサーでもある。

ほとんどの作家にとってヒルダーブランドの手法をそのまま真似することは不可能だ。書くことだけに専念したい作家も多いだろう。けれども、書店がマーケティングのために専門家(あるいはそれに専念できる担当者)を使うことや、作家と手を組んでファンとの交流をしていくことから学べることは多い。

「コストの余裕がない」という反論はあるだろう。だから既に他の仕事で忙しく、疲れ切っている書店員がマーケティングまでしているのが現状だろう。ナンタケット島のミチェルズ書店もかつてはAmazonの台頭で売上が落ち、コストが足りないため差別化のための施策に対応できず、閉店の危機に直面していたのだ。島にあるもうひとつの書店もそうであり、島から書店がなくなってしまう可能性さえもあった。

それらの書店を買い上げて救ったのは、ナンタケット島に惚れ込み、島のビジネスを救う「インキュベーター(起業支援者)」を作った元グーグルCEOのエリック・シュミットの妻であるウエンディ・シュミットだった。けれども、書店の利益を上げて黒字にしたのは書店の新しいオーナーであるウエンディ・ハドソンと、ハドソンの元で新鮮なアイデアを駆使したマーケティングを実現してきたアーレンバーグの前向きな努力と実行力である。

「費用が捻出できない」と何もやらないことを選択し続ければ、いずれ失敗するのは明らかである。生き延びるためには、やはり何かをするという選択しかないし、その結果なにかが起こるかもしれない。エリン・ヒルダーブランドとナンタケット島のミチェルズ書店は、希望とモチベーションを与えてくれる例である。


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